遠くに出かけてゆくひとに、無事に戻ってほしいと願いを込めてかける言葉。
たとえば、横浜の港。
欧羅巴への留学に出発する謙次郎と、それを見送る絹子。
出港前の喧騒のなか、人目をはばかることなく抱擁を交わすふたり。
暫しの抱擁を終え、絹子は、いまにも溢れようとする涙をこらえ、気丈な声で、思いのたけを一言に込めます。
「いってらっしゃい」
謙次郎は深くうなずくと、中折れ帽をかぶりなおし、革の旅行かばんを片手で持ち上げ、そして絹子に背を向けて、ラッタルを上る人の列へと歩き出します。
…ほら、いい言葉でしょ。
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たとえば、お城を遠くに望む庄屋屋敷。
京で患った労咳の療養のために離れに逗留している総二郎の元にも、幕府軍の苦境が伝えられています。
そして、ある晴れた朝、前庭で手水を使っていた総二郎は、ご城下に上る黒い煙りを目にします。
床を出るやいなや、ご城下の様子を見てくると駆け出した庄屋のあと、屋敷には総二郎と、総二郎の乳母でもある、年老いた庄屋の母親が残されます。
黙々と、夜着を着替え、腰に得物を挿しふたたび前庭び現れた総二郎の、その尋常ならざる表情に気づいた老婆は、前庭で腰を深々と折り、一言だけ、皺枯れた声を総二郎にかけます。
「いってらっしゃい」
…うん。こういうのもかっこいいですね。
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話し変わって、仕事場の近くの飲み屋さん。
昼は定食をやっています。
カウンターにはいつも近所の常連さんがいて、一見さんは小さなテーブルに座って、料理ができてくるのに、程よい時間がかかって、お店がそこそこ混んでくると、そこでカンバンになって…こ綺麗なわけではないけれども、居心地のいいお店です。
元気のいいおかみさんが、ひとりで切り盛りしているそのお店。
お昼を食べ終えて、お店をでるとき、こう言って送り出してくれます。
「いってらっしゃい」
…下町がちょっとだけ好きになります。